「腕」

 




ばたばた、がたんがたんと音がして、少しすると静かになった。騒がしいほどに賑わっていたダイニングが、その最後の音が遠くなったと同時に、呆気ないほどに静まり返る。
遠くにそれでもまだ、エドワードの怒鳴り声と、それを煽るように響く東方の男の高い声が微かに聞こえてくる。
ウェンリィはほんの少しの間それに耳を傾けると、小さく首を振って、その声から思考を遠ざけた。

目の前のテーブルの上には、千切れたようにばらばらとその鉄片や人工筋肉の繊維を剥き出しにさせた、鋼鉄の義肢が横たわっている。ついさっき、声の主、エドワードが置いていったものだ。
精巧に作られた鉄と金属の塊。自分が作り、度々メンテナンスを入れているせいもあるが、テーブルの上にあるそれは、無機物の塊だというのに、いやに懐かしかった。

このオートメイルをエドワードの身体に装着したのは、少し前のことだ。
少し前といっても時節にすれば随分前のこととなる。だがその間隔を短いと言っていいほど、それだけ通常オートメイルというものは耐久性が高く、長く使用できるものなのである。ましてや、自画自賛するわけではないが、それなりの技術を持つ自分が作り上げた最高級品の品質・精度を持つものなら尚更その寿命は格段に長くなっていると言っていい。メンテナンスを入れる必要はあるものの、一生壊れない、と言ってもいいくらいだと自負している。

だというのに・・・ウェンリィはその千切られたオートメイルを見詰める。オートメイルにしてほんの少し、その間に、この腕はどれだけの酷使を受けてきたというのだろう。
冷たく鈍く光る鋼鉄の表面は、ところどころなにか固いものによる衝撃を受けたと思われるいくつかの凹凸がすぐに見て取れた。以前の腕より素材の強度は落としたというものの、基本的に最高級の素材である。なまじの物質や衝撃ごときでここまで傷がつくほどのやわな硬度の筈はなかった。
ウェンリィは眉を潜める。これだけの物質にこんなくっきりとした凹凸を描くくらいの力と衝撃を思い描くと、自分の骨の中に収まっている神経さえもが、その架空の衝撃に震える思いがした。相当の強度の素材だ。ここまで傷つけるなど、なまじの衝撃である訳はなかった。
それをいったい・・・ウェンリィはその各所に点在する深い凹凸を数えようとして、止めた。どれだけの苦痛をその度にこの装着者が味わったかということなど、推察するのすらつらかった。
それから・・・ウェンリィは痛ましげにその腕を見遣る。数え切れないほどの無数の細かな傷。たった数ヶ月の間につく量ではなかった。少なくとも、普通の生活を、していれば。



ウェンリィがあの兄弟と出遭ったのははるか昔のことだ。昔過ぎて記憶にすらない、そんな時分から自分と彼らはずっと親しい幼馴染だった。
もう一人の兄弟同士のように、殆ど一緒に育った。もはや記憶に薄い自分の両親より、彼らとの思い出は多い。そのくらい、故郷のリゼンブールで、自分と彼らはずっと一緒だった。遊ぶときも、学校も、エドの母親が亡くなってからは食事も一緒だった。

その兄弟の身にあの忌まわしい事件が起こって、そうしてエドワードが自分の祖母と自分の作った機械鎧を欲したのはたった数年前のことだ。そうしてその数年の間に、二人は東部中どころか、遠くセントラルまでその名を轟かせるまでの錬金術師となってその身体を元に戻す術を求め歩いている。そうしてその度に・・・ウェンリィはぎゅっと眉を寄せる。
その度に身体をぼろぼろにして、戻ってくるのだ。

自分は確かにエドワードのオートメイルの製作者であり整備師だ。そうしてウェンリィはそんな自分を誇らしく思っている。だが、・・・反面、その立場に遣りようのないもどかしさを感じることもある。
彼らが自分の許を訪れるのは、決まってその鎧が傷ついたときだ。
鎧だけではなくて、その生身の肉体までもが傷だらけで、その表情には隠そうとしても隠し切れない疲弊の色が宿る。ウェンリィはいつもそんな彼らを迎え入れなければならない。
彼らの為に鎧を整備すること、それは自分の誇りであり使命である。・・・が、同時に、そんな傷ついた彼らを見たくないという気持ちも、ウェンリィの中には確かに存在する。


ウェンリィはたまに、今の姿ではない、昔の、ほんの小さな子供の頃の二人の姿を思い描くことがある。
いつも先頭ばかり走っていたエドワード。駆けっこは一番早くて、鬼ごっこをしても憎たらしいくらいに自分や他の友達は見つけられた。兄ほどではなかったものの、その次くらいに足の速かったアルフォンス。兄より穏やかな彼は、よく動物に好かれた。少し困ったような笑顔で、後をついてきてしまう野良犬をやわらかな仕草で撫でていた彼の笑顔を思い出す。それでは今では決して見られないものだった。
彼ら兄弟の綺麗な金髪を思い出す。二人そろって、とても綺麗なハニーブロンドの髪だった。お陽さまに当たると先っぽがきらきらして、たまに本当にはちみつみたいに、とろりと光ったりした。髪の色と同じ珍しい金色の瞳は、明るいところでも暗いところでもどの動物の目より綺麗に輝いて、ウェンリィの大のお気に入りだった。


その金色の頭が、二つ並んで歩くところを、もう見ることはない。兄のエドワードの髪は相変わらず綺麗なハニーブロンドだったが、その金色の瞳は、ただきらきらと輝くだけではなく、どこかにウェンリィの知らない色を湛えていた。そうして、ウェンリィは、その瞳が変わった経緯も、理由も知っていた。


ただ、見ているだけだった。二人が変貌してゆくのを。片腕片脚と弟の身体を失い、金色の瞳の底が濁るまでに生気を失ったエドワード。軍隊からやってきた男の言葉に、見たこともないほどの強い瞳をして機械鎧をつけてくれと言った、その確かな口調。高熱と痛みと、それから後悔にずたずたに引き裂かれながらも、それでも耐え続けた意志。
そうしてやがて次々と、エドワードは矢継ぎ早なまでに成長に次ぐ成長を重ねた。その代償として、多分同じくらいに傷ついてゆきながら、その痛みに素知らぬ振りをして。


ウェンリィは、テーブルの上から、エドワードの右腕を持ち上げた。
それはずっしりと重く、確かな手応えを手のひらに返した。ウィンリィはそれをぎしりと握りなおす。それは自分がエドワードに与えた重さだ。同時に、エドワードが自分に要求した重さでもある。
その二つは双方向に同じである筈なのに、ウェンリィはどうしてもその二つが同じ重さであるとは思えなかった。どちらかが、それがどちらかなのかは判らないものの、過剰に重いような気がした。もしくは、同等の重さ以上の何か別のものが、混じりこんでいるような気がした。

 『・・・頼んだぜ、ウェンリィ』

そう、いつもエドワードは自分に言う。しまったな、というような、少し困ったようなそんな笑顔で。その表情の端はいつも傷ついて、疲れきっていないわけはないのに、いつもその口の両端を吊り上げて、笑って。

その笑顔に自分はいつも怒ってみせて、そうしてその度にこの重さを自分の手の平で計る。エドワードの肩についているときはそれが自然なバランスを持っていた筈なのに、それはこうやって自分の手の平で改めて計ってみると、ひどく重たく感じるのだ。
そうしてその度に、ウェンリィはいつもこの重さのものを背負っているエドワードのことを考える。技師として失格かもしれないが、そのときウェンリィは、エドワードにつけているこの腕が、彼にひどく不釣合いなのではないかといつも思う。

鉄と人工筋肉は、どれだけ軽量化を図ってみてもその材質分の重さだ。それ以下には決してならない。それが機械鎧というものだ。
この腕が重ければ重いだけ、その分エドワードにとって、何か背負うものの重さが増していくような気がする。そうしてその過剰なまでの重さを、まったく気づかせないように軽々と背負ってしまう強さを身に付けることを、エドワードに強いてしまうような気すらも。

 「・・・気軽に頼んでるんじゃないわよ、・・・ボケ・・・」

思わず声が口をついて出る。まだ軽くはならない鎧。傷だらけの金属。なんて因果な役目だろうとウェンリィは思う。
それは自分が望んだことではあるものの、こうしてその物だけが、ごろりと投げ出されているときは、ウェンリィは、これだけしかできない自分を、ひどく無力なもののように感じる。生身では決して得られない強度、そして再生性。それは技師として、ウェンリィが誇るオートメイルの最たる特徴だ。だが、それがひどくつらく、無慈悲なもののように思えることもある。

鎧に目を落とす。機械鎧の肘の手前のあたりに一際深く長く抉れた跡があって、その傷の深さに、ウェンリィは息を止める。この材質にこれだけの傷をつけれる衝撃。生身ならば生きてはいなかったかもしれない、その傷跡。

 「・・・ったく、なにやってんのよ・・・、こんな傷つけて、っ・・・」

鈍く光る腕を握り締める。ぎゅっと、力を込めて握り締めると、冷たい筈の金属は、 自分の体温を移してか、ほんのりとどこか温かいような気がした。
温かいわけはないのに。ウェンリィはその冷たさをよく知っていた。ひんやりと冷えた、金属の冷たさ。それは生身の人間の体温とはいつまでたっても馴染み合わない唯一のものなのだ。技師であるウェンリィはそれを知っていた。だが、これは、どこか温かい。

 「・・・・・・バカエド・・・・・・」

これを、やっぱり困ったような顔で笑いながら自分に手渡した持ち主の名を呼んで、ウェンリィはその腕を両手で握り締めた。両手で持っても尚重さを感じるそれは、いつもは自分より背の低いその持ち主の片手として動いているのだ。
その重さを与えている自分への悔しさと、その人間に役立っているという誇らしさが、ウェンリィの中で交錯してうまく交わらない。ほんの少しだけ、目尻に涙が浮かんだ。ごつごつとした手の平の中の機械は、それでも自分の体温のせいなのか、どこか人肌を思わせるほどに温かさを持っていた。

 「・・・とっとと、・・・元の身体に戻る方法、見つけなさいよ・・・」

出した声は泣き声に近くて、ウェンリィは慌ててその声を呑み込もうとする。だが、息がうまく継げなくて、少ししゃくりあげるようになった。
いやだ、そんなつもりないのに。ウェンリィは息を呑み込もうとする。たかがこんなことで泣くつもりなんてなかった。泣きたくても泣かない人間をサポートできるように、ここに修行にきた筈なのに。そんな人間が、これしきのことで泣いてはいけない。



そうだ、エドワードとアルフォンスが目的を果たすまで。

二人が失われた自分たちの身体を取り戻すまで、自分は泣いてなんかいられない。少しでもいい鎧を、エドワードに提供し続けなければならない。少しでも軽く、丈夫で、エドワードをさまざまなものから守る鎧を。彼の手足を。

 「・・・・・・そうよ、少しでも軽くて強度のある鎧を・・・・・・」


そのために。自分は今ここでこうして、誰もいない部屋で彼の腕となるものを握り締めている。
この腕の重さが、彼の背負うものの、たとえ物質的な重さですら、少しでも減りますように。彼が、少しでも、泣くことすら忘れるほどの強さを、緩めることができるように、たった少しでも、何グラムでもいい、軽く、少しでも、軽く。


そうして、いつの日か、その腕が金属のそれではなく、自分の腕と同じく、たんぱく質と血液で出来た、本当の生身の腕となるまで。それまで、自分は彼の右腕と、左脚をでき得る限りの努力で、守り続けるのだ。



そうして・・・・・・ウェンリィは、そのいつか来る日を思い描こうとする。すらりとした高い背の、ハニーブロンドの髪を散らした肩からは、しなやかに発達した筋肉に覆われた腕が多分短く切り込まれた爪の先まで、綺麗に伸びている。その白い皮膚の色が、きっと太陽の光を受けてやわらかく眩しい光を跳ね返すであろうことを、ウェンリィは瞼の奥に思い浮かべた。



その腕が、銀色に鈍く輝く鋼鉄製のものではないということに、ウェンリィは一瞬眩暈のようなものを感じる。
その断絶にも近い一瞬の混濁に、ウェンリィは特に意味を見出そうとはしなかった。ただ指先で冷たい機械鎧の腕を探るように手繰り、そうしてほんの少しだけ、声を殺して、泣いた。






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