「裾」

 




「裾、」


「・・・・・・あ・・・?」

なにやら声を掛けられ、エドワードは戸口に向かい始めていた足を止め、 声のする方を振り向いた。
振り向いた先にはデスクに座っている男が一人。青い軍服の、黒い髪、白い顔の男、ロイ・マスタング。

「・・・なんだって・・・?」

問い返すのがひどく面倒臭いと思いつつもこうやって問い返す自分は、だからこそこの意地の悪い上司によく揶揄われているのだろうという自覚はあるものの、どうしてもやめられない。はっきりしないのは嫌いなのだ。

「裾。」

振り返ったエドワードに、ロイは再び同じ言葉を繰り返したらしい。短く発された言葉は、さっきと同じ音だった。じっと固定されているその視線は、辿ってみると、どうやらエドワードの赤いコートの裾付近らしい。コートの裾?なんだ?折れでもしているのか、それとも汚れているのか。
エドワードは首を何度か巡らし、なにか異変を見つけようとしたが、それらしきもの見当たらない。何度か確認してみても、コートはいつものまま、この前洗ったときより微妙に薄汚れたくらいで、特に変わった点は見つからない。
なんだ?とくるくる首を回すエドワードに、堪えきれないようにくくっ、ととそれを見ているロイが笑った。

「・・・んだよ、・・・なんでもないとか言うんじゃねえだろな」

その笑い声に裾を見るのを止め、エドワードはばつの悪さをなるべく出ないように装いつつ(だがバレてしまっているのは確実だろう)、ロイに訊ねた。本当は問い返すのも嫌だし、なんでもないとまさに言いかねない男だが、・・・エドワードは自分の性格について密かに嘆息する。はっきりしないのは嫌いなのだ。

「いいや、」

楽しそうに口許を歪めて、ロイ・マスタングは尚も笑ってみせる。その様子が勘に障るものの、回答待ちのエドワードとしては、相手がその笑いを収めもしくは収めぬまま、次の言葉を口にするのを待つよりない。相手の白々しさ満載の笑い顔を見つめつつ、エドワードはこうやって相手の顔を見ながら待つ、というその行為自体にこそばゆさのような不快感のようなものを感じずにはいられない。じりじりとしながら、エドワードは軽く眉根を寄せる。その表情が相手を面白がらせるに他ならないと知っていても。

「・・・なんだよ、・・・早く言えよ・・・」

にやにやと、笑みだけは崩さずに口を開こうとしないロイに焦れて、気短にエドワードが問うた。その口調がいやに焦っているような性急さを表しているような感じがして、そんな言葉の出し方をしてしまった自分に、エドワードは舌打ちしたいような気分に襲われる。ああしまった、エドワードは喉の奥を詰める。まるで子供のような態度ではないか。よりにもよって、この男の前でそんな態度を。

ロイは一言発してそれからまた黙ってしまったエドワードを楽しげに見遣った。その様子はどう見ても、エドワードの態度を面白がっているとしか思えなかった。睨み返したエドワードに、ロイはふっと軽く短い笑いを吐き出すと、息を整えるように一瞬下を向いて、「いや・・・」と小さく言った。

「裾がな、よくぞまあひらひらと揺れるな、と思って」

「・・・・・・は・・・?」

ロイの口から洩れた言葉の意味がよく判らず、エドワードはつい咎めるような声を上げた。ひらひら、というこの厳しい部屋には似合わぬ部屋の中で、ひらひらという言葉とやはり関係のなさそうな目の前の男に、やはりそんな形容詞とは無縁の自分が言われた言葉としては、理解に苦しむと言うしかない。そもそもあれだけニヤニヤされた挙句に言われるべき言葉とは思えなかった。いったい何の暗喩だ?とエドワードはとっさにその裏に隠された意味を考えようとした。が、どうにも関連性が見当たらない。
そういえばこの男はよくこういったどうにもならない与太のような戯言を言うことがあるが今回もそれか、とエドワードはこの男をまともに相手をしようとした自分に一瞬自己嫌悪を覚える。
なんとかならないだろうか、とエドワードはこういった度に嫌になる。どうせまともなことなど言ってくれる訳ではないというのに、心の底のどこかで、微量に期待してしまう自分。それはいつも苛立ちと共にエドワードを軽い失望感に陥れる。エドワードは溜め息を吐いて踵を返した。


「・・・おい待て、鋼の。もう帰ってしまうのか」

再び背を向けて歩き出したエドワードに、ロイが平坦な声を投げ掛けた。その声にはエドワードが背を向けたことも、言葉の意味を問わないことへの感情はなんら組み込まれていない。まったく普通に平坦な、感情があると見せ掛けて実はない、そんな声音だ。
エドワードはそんな彼の声音が嫌いであって、嫌いでもない。時折いやに不快に思うものの、まったく不快だという訳でもない。たまにその声は自分になにか名状しがたいものをもたらす。
だから、・・・エドワードは足を止める。だから、やはりその声が自分に向けられると、自分はどうしても立ち止まってしまわずにはいられない。

「・・・くだらねえこと言ってるなら、用はねえよ」

「くだらないとは非道いなあ」

低く、応えを返したエドワードに、まったくひどくもなさそうなとぼけた口調で返したロイは、それでも振り向かないエドワードに、さすがに少々態度を変えようと思ったらしい。「いや、」、とすぐに次の言葉を続けた。

「・・・君のね、・・・そのコート。・・・・・・歩くと、裾がずいぶんとひらひら揺れるんだなあ、と思ってね」

「・・・・・・それが・・・?」

まともに話を続けるようだが、まったくまともな内容になりそうにもないロイの話に、エドワードはそれでも振り向き、怪訝そうな目を向けた。まるで尻尾を振って主を見つめる犬のようだ、とエドワードはそんな現金な自分を苦々しく思う。ああ、だがそういえば狗には違いない、自分も、彼も。この犬と自分の違いは、単に訓練されている犬か、そうではないかの違いでしかないのだ。

「・・・いや、ほら、軍のコートは生地が分厚いだろう、そうはならないなあと思ったら、つい、ね」

「・・・・・・なんだよ、それ・・・・・・」

本当にさしたる意味ももたず、ひらひら、の意味を説明したロイに、エドワードはさすがに呆れた声を出す。散々自分のことを子供扱いしておいて、自分に結局は子供に他ならないことへの自己嫌悪すら感じさせるくせに、この上司ときたら、たまにこんな馬鹿馬鹿しいほどに子供っぽいことを言い出す。それは子供である自分から見ても馬鹿馬鹿しすぎて考えもしないことだというのに、彼の周囲の人間はよくまあこれを相手にしているものだ、というくらいのものだ。尤も相手になどしていない、というのが、彼の最も優秀な部下であるホークアイ中尉の言いそうなところであるが。
それにしてもひらひら? よくぞその口に出せたものだ、とエドワードは呆れ果てた目でロイを見た。こんな男でも有能なのだから、人間というのはまったくわからない。

「・・・このコートだって、かなり生地は厚いと思うけど」

やはりひらひら、という少女じみた形容が引っ掛かり、反論のように続けるエドワードに、ロイは苦笑のような笑いを洩らして、「そうではなくて、」と言う。

「・・・なんだろうね、多分厚さだけじゃなくて、生地の質そのものが違うんだろう。・・・君のそれは、・・・そうだな、厚くても柔らかいような気がするね。・・・よく動く」

「・・・・・・そうかよ、・・・」

どうにもならない会話になってきたな、と思いつつ、とりあえず続ける言葉がなくて、エドワードは手持ち無沙汰な気持ちで、自分の着ているコートの端を手慰みに摘んでみる。
確かに自分のコートのそれは、度重なる洗濯に磨耗したせいもあるのか、無機質のように重くかっちりした軍装に比べると、やわらかく、身体に纏いつくようなやわらかさを持っているような気もした。だからといって、こんな意味のない、不毛な会話の助けになることなど、今その生地を手繰る自分からは出てきそうにもなかったが。


「・・・・・・君に、・・・・・・よく、似合う」


手袋越しに、自分のコートを摘んでいたエドワードの横から、ロイの声がそう言った。
その声に、エドワードははっとした。なにげない、いつもの平坦な口調だというのに、その中には何かいつもは隠されている筈の、ロイの感情めいたものが潜んでいるような気がした。さっきまで単なる不毛な会話だとしか思えなかった言葉の中で、その言葉だけが、違う響きを纏って自分に届いたような気がした。
とっさにロイを見たエドワードの目に、いつものように、デスクに座って、いつものように机の上で手を組んでこちらを見ている男の姿が見えた。だが、その男は、いつものように嫌味たらしかったり、与太で自分を揶揄おうとしている男なのだろうか。エドワードは目を凝らした。だが、ちょうど後ろの窓からの日の光を受けて影になっている男の顔からは、表情は読み取りにくかった。

「・・・・・・・・・大、佐・・・・・?」

その表情を読み取れたら、滅多に読み取ることのできないこの男の生の表情を見ることができるのではないかという気がして、エドワードは相手を呼んだ。読み取れるものならば、たとえ少しでもいい、この際読み取れる分読み取ってしまいたかった。

「・・・・・・いや、どうもね、」

そのエドワードの心情を知ってか知らずか、ロイは嘆息とも、苦笑ともつかぬ息とともに、言葉を洩らした。

「・・・・・・軍服では、・・・そうはならなくてね・・・」


その言葉尻が。どこか遠く夢見るように薄れてゆくのを、あるいはここではない、どこかまったく別の処に送り届けるような空白に満ちていることを、エドワードはただなす術もなく聴き、見守った。この男にしては、ひどく微かな響きを交えた語尾だった。読み取ろうと思えば読み取れるかもしれないのに、エドワードはその語尾の儚さのようなものに心を奪われ、追求するということを忘れた。それはひどく、自分にしては不思議な感覚だった。




「・・・引き留めたね、・・・弟君が待ってるだろう、もう行き給え」

まるで何かの状態を解除するかのように、平静な声が空間に響き渡った。それは、今までこの空間を満たしていた、不可思議なものを払拭するかのような平板さで、その声に触れ、今まで自分を包み込んでいた奇妙な・・・快さのようなものだろうか、それを一瞬にして壊してゆくのをエドワードは感じた。

「・・・・・・あんたが、・・・言い出したことだろう・・・」

それが壊されてしまったことに、エドワードは後悔にも似た残念さを感じている自分に、少し驚きながらそう口に出した。まだ、胸の中を、その不可思議なものが漂っているような気がした。そうしてそれは、胸の中に留まったまま、壊されていくのを拒否していた。

「・・・すまなかったね。・・・つい、ね」

ロイの口調はもはやあくまで平素どおりの、あの平坦で優しげな(だが優しくはない)口調そのものに戻っていた。エドワードはとっさにロイがあの空気をこういう口調によって引き裂き、滅してしまおうとしているのを感じた。普段は使われない謝罪の言葉を使ってさえ、自分が発したあの不可思議なものをエドワードに解読される前に壊しきってしまおうとしている。

その態度を、この男らしい卑怯さだと思いつつも、エドワードは腹が立った。読み取られるが困るならば、その欠片ですらも出さなければいい。だが、もし出したい欠片があるならばいっそ・・・・・・



足が、再び今度は机の前にいる男の方に踵を返し、そうして無言のまま向かった。これ以上、無駄な言葉で何かを無駄にしたくない思いで、エドワードは決して緩慢ではない勢いで、デスクの男の許まで向かう。

「・・・・・・どうした、鋼の」

デスクの近くまで着き、男の許まで回り込んでその傍らに立つと、男は少しは驚いたかのような、だが実際は別段驚いていないかのような曖昧さで、椅子に座ったままエドワードを見上げた。そこに、先ほどまで感じられた、あの口調は、欠片ほども残してはいなかった。否、隠し切られていた。

身を屈める。瞬間少しだけ見開かれたロイの瞳が見えて、エドワードは「ザーマミロ」と心の中で思う。それから、唇を触れさせ、強く押し付ける。相手のやわらかく、少しかさついた表面が自分のそれを擦った感触がして、エドワードは堪え切れずに舌を突き出し、その合間を抉じ開けると、奥へと捻じ込んだ。

口の内は熱かった。唾液と血の温度で湿っているそこは、舌で探ると、その湿り気のせいもあるのか、さっきこの男が瞬時不意に見せてみせた、あの不可思議な空気の感触と、どことなく似通って、繋がっているような気さえした。

「・・・ハ・・・・・・」

しばらく、舌を絡め合った。舌の間で交わされる熱く湿った空気は、自分とこの男の間で唯一同等に取り交わされる類のものだった。吐息とともにそれを味わって、エドワードは絡めていた舌を解き、口唇を離した。解放した相手の口唇は、自分との唾液の遣り取りによってか、透明な液で透き通るような輝きを表面に掃いていた。


「・・・なんだ、これで終わりか、鋼の? 続きはいいのか?」

その濡れた唇で、揶揄でもするかのようにロイが言う。確かに、エドワードがそういったキスを仕掛けるときは、当然次の行為も続けるためにするのが常だが、エドワードは今日はそうしなかった。そうしたくはなかった。この男に、今日はそんな快楽など与えてやりたくもなかった。

「・・・・・・アルが待ってる。・・・仕事しろよ、給料ドロボウ」

そうして、今度こそ本当に踵を返して、エドワードはロイに背を向ける。
ああ、本当だ、とエドワードはふと思う。自分が歩くたびに、そういえばこのコートの裾は動きに合わせて揺れているのだ。まるで自分の動きをそのまま移し取るかのように。その動きの軽やかさが、自分であるかとでもいうように。



「・・・じゃあな、」

ひときわ、裾を大きく翻して、エドワードはドア近くまでの短い道のりを歩く。その後姿を、細部洩らさず、一瞬たりとも目を外さず、後ろの男が見守っているのだと知りつつ。
裾は大きく揺れる。
自分の動きに合わせて、そうして布の重さを感じさせない、動きそのものの動きを移して。


そうして、それを見守る男の目が、今こそは、さっきの、どこか遠くを見るような、憧憬にも似た、そんな色を映して、自分の後姿を見詰めていればいい。そうエドワードは思った。






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