Specialized SPECIAL








 ふと見ると、吐く息が白くて、紺を通り抜けて藍色の夜空に白い泡のような息が散った。それを眺めながら士朗は冬が近づいているのだ、と思った。今朝からいきなり冷え込んだ夜の冷気は絶品で、士朗は今ここまで歩いてくるのに、何度昼過ぎにうっかり油断して羽織ってきた秋用の薄いジャケットを後悔したか知れなかった。

 「・・・ニクスのやつ、いるかな・・・」

 寒さに背を丸め、白い息で口許を蒸らしながら歩いていると、突如不安になる。ニクスのバイトが今日は7時過ぎには終わり、とっくに家に帰っていることは確実な筈で、ここのところ「金がない」ということでいつものクラブには顔も出さず、今頃は彼のアパートにいるということはここのところの確実な事実であったというのに、どうしてかこの突然な寒さが士朗を心細くさせた。寒くて心細くなるなんて子供か俺は、と士朗はそんな自分を馬鹿馬鹿しく思おうとしたが、目の前で白く散ってゆく白い吐息の弱々しさは、深く蒼く強張った空に対して、いかにも儚く見えた。

 10時なんて中途半端な時間がいけないのだ、と士朗は身震いする。こんな夕方とも、夜とも、真夜中ともつかない半端な時間は、自分をどこか不安にするのだ。そうしてそんな時間の白い息を吐くほどに寒くなった一人きりの道など、若干情けなさを感じずにはいられないが、自分をどこかよるべない、心細い気分にさせたりするのだ。

 「・・・ニクス、自分で来いとか言って、・・・忘れてたり、してないだろうな・・・」

 思わずぼそりと呟く。ニクスは「いついつ来いよな」と軽く言って、その割にそのことをすっかり忘れきっていたりすることが少なくはない。それをしっかり覚えていて入れ違ってしまった士朗が後で問い詰めると、「したっけ、そんなん」と頭を掻きながら言って、それから「すまん」と大して済まなくもなさそうに付け加えたりする。その度に士朗は腹を立てるのだが、こんな、冬を感じさせる突然寒い日の、夜の10時だなんて時間に、そんなことだけはやめて欲しかった。もし、あのアパートのあの部屋に灯りが点いていなかったら、士朗はその寒々しい光景を思い描いて、もう一度ぶるると大きく身震いした。


 少しだけ、速足になる。足を速めると、頬を切る風がその速さ分だけ冷たくなった。目尻の端が冷え冷えとした。目指すアパートまではあと数分。わずかな距離だ。
 次の角を曲がり、もう少し細い道に入ってからもう一回曲がる。その先のごみごみと住居の立ち並ぶ一角の、少し壁の汚れた旧い二階建てのアパートの一室に、ニクスの居はあるのだった。この角を曲がれば、士朗の足は更に急いだ。この角を曲がれば、そうすれば、ニクスの部屋が見える。
 最後の角を曲がる。小さく回り込もうとすると電柱が邪魔だった。あわやぶつかりそうになりながらも上を見上げつつ歩を急ぐ。二階の、左から3番目の部屋。ほんの少しだけ、息が詰まった。一瞬士朗は寒さを忘れた。


 台所の小さな窓から、明るい光が延びている。錆びかかっている鉄の階段の数段に、その細い光の筋を投げかけて、その光は部屋の主の在宅を士朗に告げていた。


 ほうっと、士朗の肩から力が脱けた。気づかぬうちに少しだけ力んでいた自分に苦笑して、士朗は小さく微笑んで息を吐く。俯きがちに、踏み固められた土と灰色のブロックに向かって吐き出された息は、心なしかさっきより薄く微かになっている気がした。
 足音をあまり立てないように注意しながら、鉄の階段を上がる。安普請な薄い鉄の階段は、ほんの少しでも注意を怠ると、カンカンとひどい音を立てた。そんな建物には今まで縁がなくて、始めのときは真夜中だというのにうっかり凄い音を立てたりしたものだが、ここに来ることに慣れるようになってから数ヶ月、大して意識もせずに足音をひっそり殺す術を覚えるようになった。

 部屋のドアの前に辿り着いて、チャイムを鳴らす。1回ではニクスは出てこない。本当に用がある人間ならば、2回以上鳴らすのが当然だと彼は言う。なのでもう一回、士朗はチャイムを鳴らす。2回チャイムを押し、しばらく待つと、ごそごそと音が聞こえ、ガチャリと鍵のあく音がした。戸が開いて、中からニクスの金色の紙が、光とともに零れてくる。



「・・・・・・よお、・・・・・・」

少しだるそうに、ニクスが言う。もっとも彼はいつもこの調子で、彼がだるそうでなく言うことなど音楽とかDJプレイのことに限られている。

「手土産くらい持ってこいよ、おまえ」

手ぶらで入ってきて、靴を脱いだ士朗に向かってニクスが言う。それはここに来る途中、士朗も思いついたことで、だが、あまりの寒さと心許なさについ道を急いできてしまったのだ。

「・・・先週ビール半ダース持ってきてやったろ、そうそう毎回持ってこれるか」

 ジャケットを脱ぎながら士朗が言う。小さなテレビデオからはバラエティ番組が流され、殺風景な部屋に色彩を投げかけている。


「・・・おもしろいのか・・・?」

 司会者の言葉にどっと沸くテレビの様子を見て、士朗がニクスに尋ねる。米人ハーフである彼は、日本より向こうでの生活の方が遥かに長く、いかに流暢に日本語を操るといっても日本人好みの言葉遊びのようなギャグにはさして興味を抱くとも思えなかった。いいや、とニクスはテレビを見るでもなく答えて、なぜ、と問うようにじっとニクスを見た士朗に部屋が明るくなるからな、と短く答えた。上の電球だけだと明るくならない。

 古ぼけた畳、どうやって運び込まれたか知れないくすんだ赤の長いソファ、申し訳なさ程度にその手前に置かれた小さな折り畳み式のテーブル、テレビデオとビデオを載せたスチール製の棚ひとつ、それから台所には小さな冷蔵庫。それが彼の部屋のすべてだ。服やCD、12インチ盤はすべて押し入れに入れてあるらしい。
 何もない、素っ気ない部屋で過ごす時間がかなり多くなった、と士朗はそれらをざっと見渡してそう思う。すべて貰い物や拾い物だというそれらのものは、どうしてかしっくりと彼と、それからやがては自分に馴染んだ。ここは暖かいな、士朗はふと思う。冷たい外気を遮られたせいか、安普請の見本のようなこの部屋でも、寒さで引き締まった頬がほうっと緩んだ。



「そうだおまえ、メシ食ったか?」


 咥え煙草をしながら、ニクスが士朗に訊く。
 そういえば今日はあれこればたばたしていて、夕方に軽くファーストフードを摂ったっきり、マトモな食事をしていなかった。いいや、と返事を返すと、彼はふーんと低く頷いて台所に消えた。多分これから彼も食事なのだろう、そのついでに士朗の分も作ってくれることはよくあった。一見他人に無関心そうに見えて、ニクスは意外に面倒見がいい。ただし、それは彼が面倒ではないという範囲に限られ、彼の機嫌のいい時にのみ行われた。

 カタカタと隣の台所で用意をする音が聞こえ、水道の音、ガスを点火するボウッという音、それからビニール袋を破るカサカサした音などがテレビの騒々しい音の合間から聞こえてくる。士朗はこの瞬間がとても好きだ。自分の家に居るときは、台所が遠く離れていて、誰かが自分のための食事を作ってくれる音など聞こえることすら考えなかった。彼が何かを作っている音が聞こえ、作るための動作が気配によって伝わってくる。士朗は単純にそのことが嬉しかった。

 やがて、ふわりと食べ物のいい匂いが漂い、ニクスが「できたぞ」と士朗を呼ぶ。
 その士朗を呼ぶ声が、いつもいつもほんの少しだけ得意そうで、士朗はおかしくなる。ニクスは必要最低限の料理しかしないから、得意そうに言うほどの料理なんて本当にない。それでもそのとき士朗を呼ぶために発された声の端の端の、ほんの小さな部分に、微量な誇らしさのようなものがどこか込められていて、士朗はついそれを感じ取っては小さく笑う。


「・・・なに笑ってんだよ、今日は特別料理なんだから、心して食えよ」


 可笑しそうにニクスに近づいていく士朗に、憮然とした表情でニクスが言う。
 特別料理、の言葉に士朗が手元のどんぶりを覗き込むと、そこには湯気を立てたラーメンがよそい分けられていた。明らかにインスタントに違いない麺の上には、雑に刻まれたキャベツがいつものとおり、山盛りに盛り付けられている。夏にキャベツが安くなってからというもの、ニクスの家で食べるラーメンには必ず山ほどの茹でキャベツが乗るようになった。彼曰く、麺と野菜を一気に食べれて都合がいいとのことだったが、これは別にニクス宅においては普通の料理で、特別というようなものでもない。

 首を傾げながらも湯気の温かさに誘われるように小さなローテーブルで頭を突き合わせるように二人は黙々とラーメンを食べる。ラーメンが特別製なのかと思ったが、濃いスープといい、麺の偏平さといい、どう考えてもニクスの常食である袋ラーメンのものでしかなかった。まあこれはこれで美味いけどな、と汁を啜りながら士朗は思う。今日は醤油味の麺らしい。ニクスをちらりと見ると、いつものように黙々と麺を平らげている。なにか特別なものが発見できないかとしばらく横目で見つつ士朗は食事を続けたが、特にそれらしい素振りはなかった。


 二人揃ってしっかりどんぶりの底まで空にすると、片付けるでもなくニクスはソファの上に、士朗はソファに凭れかかってしばらく点けっ放しだったテレビを見た。テレビは特に面白くもなく、死ぬほどつまらない訳でもなかった。



「・・・なあ、」


士朗は画面を見つめたまま、ニクスに尋ねる。

「今日のラーメン、何が特別料理だったんだよ」

 ニクスはその質問にしばらく黙ったままで数秒を経過させると、「わからねえ?」と短く訊き返した。

「全然わからん。なにがどう特別だったんだ?」

 再び尋ねる士朗にニクスは今度は完全に黙り込んだ。沈黙が10秒を経過したところで、士朗はニクスがこの質問に答える気がないことを知った。まあ、別に腹にものは入ったからいいけど、と士朗はさして深く追求もせずやり過ごそうとした。



「・・・・・・信じられねえ、マジかおまえ」

 予想外に、ニクスが口を開いた。

「・・・あ・・・?」

「・・・・・・何が、ときたもんだ、この野郎・・・」

 いささか深刻めいて発される声音に、士朗は驚いて後ろのニクスを見上げる。頭を抑え、ニクスの表情は掌に隠れてよく見えない。

「・・・・・・なに、」

「・・・信じられねえ、おまえ絶対愛情足りねえ」



「・・・・・・・・・あ?」


 料理とは筋違いのことを言うニクスに、怪訝そうに声を張り上げて士朗が問い返す。メシの話をしていただけなのに、何がどう間違ったら愛情が足りない、というそんな次元の話になるのだろうか。こいつこそ信じられん、と士朗はきつくニクスを睨みつけた。

「何がどうやったらさっきのラーメンから愛情足りないっていう話になるんだよ。繋がってないぞニクス」

 返事をしないニクスを問い詰めるように士朗が言い募る。ニクスは答えようとはしない。その士朗の言葉を意に介そうともしない態度は、士朗の中でニクスの最も気に障る態度だった。

「おいニクス、」

「・・・じゃあこっちこいよ」

「・・・・・・あ・・・?」

 詰問しようとした出鼻を挫くように掛けられたニクスの言葉に、士朗はまたしても怪訝な声を上げる。さっきから馬鹿にされているとしか思えない言葉の返し方だ。


「知りたきゃ、ここの上まで上がってこい。・・・じゃないと教えねーよ」

 そう言って真っ直ぐこちらを見たニクスの眼には予想していた揶揄いの色はなくて、思ったより真剣だった。その目で、士朗は瞬間感じた怒りを窄ませ、持て余した。



「・・・おまえ、ヤりたいだけかよ・・・」



 少し情けない気分になり、言うだけ阿呆らしいな、と思いつつ士朗は呆れたような表情を作って、長いため息を吐き出してやった。
 彼が他の人間に対してはどうなのかは知り様がないが、士朗に対してのニクスの誘い方は直截だった。確かに今更オブラートに包むでもないが、と士朗は思う。それこそ今更だ。彼と初めて寝てからもう随分と経つ。お互いをわざわざもう確認し合わなくとも、相手をどんな目で見て見て、なにを望んでいるか、もうわからなくはない。

「くだらんこと言うな」

 案の定、ニクスが変わらぬ低い声で短く答える。その彼の、平静な真面目さが、士朗は嫌いではない。ここで奇妙に盛り上がられたとしても、士朗は身の置き所もなく感じるだろう。彼が自分をどう思っていてそのように要求してくるのか、つぶさ名ところまでは知らないものの、その必要最低限の彼のやり方でそれを要求されるのは、士朗としては不本意ではなかった。

「・・・寒いんだけど、・・・暖房つけねえ・・・?」

 ジップアップの薄いジャケットを脱ぎ落としたところで、士朗はぶるりとひとつ大きく震えながら言う。安普請なニクスの部屋は、寒い日の夜は殊のほか寒く、部屋の主は電気代を節約してか気にならないのかどうか、なかなか暖房を点けようとはしなかった。

「ひよわいこと言ってんな、とっとと脱いで来いよ」

 ソファに寝そべりながら、ニクスが言う。こういう時のニクスは、とても余裕があるように見える。事実あるのかもしれないが、着衣を脱ぎ落とし、ソファの上の余裕綽々の彼の上に身体を重ねてゆく自分が、士朗はひどく余裕のない、力無い存在に思えてしょうがなかった。冷たい空気が直接肌を刺し、士朗はまたしても身体を震わせる。

「風邪ひくぞ、とっとと来い」

 ニクスが落ち着いた声で士朗を手招きする。だったら暖房をつけろと言いたいところだが、それもあっさり無視されることを士朗は知っていた。


「解くぞ」


 上半身を脱ぎ、ニクスに重なっていった士朗の、後頭部にあるゴムに指を引っ掛けて、ニクスが低く言った。耳許に温かい息を吹きかけられて、背筋の真中がぞくりとする。ぴん、と頭の後ろの髪が攣れるような感触がして、それからばらばらと自分の髪が自分の肩と、ニクスの肩に零れ落ちる。

「・・・ふーん、冷えたな・・・」

 零れ落ちた髪の先に頬を擦りつけながら、ニクスが言う。それから髪に頬を押し付け、少しニクスはじっとする。彼は士朗の髪の感触を意外と気に入っているようだった。何かの度に、こうして彼はその髪の冷たさを楽しむ。


「口、開け、」


 それが彼のキスの合図だ。士朗は彼の上に乗った状態のまま、口を少し開いて、彼の口許に合わせる。後頭部を強く掴まれ、深く唇を合わされた。

 舌が、士朗の舌に絡む。しばらく、二人で相手の舌をなぞり合う。士朗はこの行為が好きで、嫌いだ。舌を擦り合わせる時のくすぐったいような感触は心地よいけれど、続けていると、息が詰まって段々と苦しくなってくる。すぐにも口を解放して欲しいような、ずっと続けていたいような、そんな相反するところがあって、どうしていいのかいつもわからない。


 合わせていた唇を離し、ニクスが士朗の首筋を舌でなぞる。背筋がじわじわと何か得体の知れないもので充たされてゆく。始まるな、と思う。士朗はいつもこの瞬間、今日も一連の行為が始まるのだと頭の中でかちりと思う。

 両腕で、自分の体重を支えるのが困難になってきて、それに気づいたニクスがソファの上で体制を変える。士朗を下にし、それから自分も上着を脱ぐ。士朗とは違った白さの、白人系のうす赤い白さをもった肌の筋肉が、蛍光灯の光を背負ってくっきりと肩の形を浮き出させている。

 身体が違うんだ、士朗はいつも思う。同じのように思えて、それでも彼の身体は自分とは造りが違う。鍛えられ、張った肩は、自分がどう足掻いても手に入れられないもので、それは男としての嫉妬と羨望をいつも感じる。金髪の髪の先が、真っ白くなるほど透けて輝いて、ひどく眩しい。

士朗は目を閉じた。熱く、固い指が、自分の脇腹に這わされるのを感じた。






 手足がひどくだるい。ニクスとした後はいつもだ。
 成人男子に対して広いとは言い難いソファの上で容赦なく揺すぶられたツケは、ダイレクトに身体に来る。一回で済んだときはまだそれほどでもないものの、今日は二回続けざまにやった。二回目の時はもう途中から完全に足から力が抜けていた。


「生きてるか」

 セックスの後の一本と言わんばかりにゆっくり煙草の煙を燻らせつつ、ニクスが士朗に声を掛ける。機嫌は悪そうではない。


「・・・なんとかな・・・」

 てめえのせいで死にそうだったと続けそうになって、士朗は口を噤む。なんとなくそれは却ってニクスを喜ばせる言葉ではないかと思ったからだ。とにかく、二階のセックスの効果は絶大で、さっきまで寒いかなと思っていた部屋も、なにひとつ纏っていない身体は今は寒いとは思わなかった。指の先の先まで、熱され、発達した血液が駆け巡っているような気がした。



「・・・・・・オラ、・・・」


 押し入れから客用布団を引きずり出し、ローテーブルとソファの間に、ニクスはそれを敷いた。士朗がここに泊まるようになってから数回目くらいに、士朗が近所の布団屋で買い込んで置いたものだ。ニクスはいつもソファの上で寝るので、そこには士朗が寝ることになっている。

「・・・・・・ムリ、動けない・・・」

 さすがに勘弁しろと士朗が弱りきった声を出すと、「ま、しゃあないな」と、ニクスは二本目の煙草を吸いながら言う。しょうがないもなにも、突っ込んでガタガタ揺さぶったのはそっちだろうと士朗はムッとするが、それも口には出さない。

「そら、」

 士朗の上にばさりと毛布が掛けられる。今日は特別にソファで寝てもいいということだろう。いつもは堅いソファの上でだらりと寝るのが好きなニクスだったが、さすがに士朗の状態を見てまでそうとは言わなかったらしい。
 まあこんな時くらい特別措置は当然のことだ、と少し溜飲の下がる思いで士朗は毛布引き上げた。それから。




「・・・・・・あれ、・・・そういやなんだったんだよ、今日の特別料理って。」


 ふと思い出した疑問を再び口にしてみる。それほど気になっている訳でもないが、そういえばソファに来たら教えてやるとかいった筈だ。まあそれは単なるセックスの口実だろうから、大した意味はないのだろうけれど。

「・・・あん・・・? まだ覚えてたのか、執念深いやつ・・・・・・」

 ニクスは一瞬判らなかったようだが、すぐに思い出したようで、呆れた顔で士朗を見る。どう考えても経緯としてはニクスの方が余程呆れたやつだと思うのだが、ニクスは無論そんなことをいちいち気にするような人間ではない。

「・・・やれやれ、・・・・・・いいか、いつも俺の食ってるラーメンは塩味だ、・・・わかるか・・・?」

 深く溜め息を吐きながら、ニクスは説明を始める。どうやら今回は真面目に答える気になったらしい。

「・・・・・・あー、・・・そういや、そうだった、・・・かな・・・・・・?」

 溜め息混じりに仰々しく話されたところで、士朗としては『いつもインスタントラーメン』くらいの認識しかない。言われてみればいつもはスープの色が白っぽくて今日は醤油味だったような、と思うが、それも曖昧な記憶で、定かではない。というか、別に士朗はラーメンが食えればそれでいいのであって、その種類に関しては割とどうでもいい。


 ニクスはそんな士朗の態度に「だからおまえは日々の食い物に注意を払っていなっていうんだ」と鋭く一瞥しながら言い放って、

「そうだ、いつもは塩ラーメン5個で198円パックだ。つまり消費税含め、一個あたり約42円だ。そこは判るな」

 やたら真面目くさく続けるニクスに、奇妙な圧倒間を感じて、士朗は話が掴めないながらもとりあえず頷く。

「・・・ところがだ、・・・今日のラーメンは、一個89円の醤油ラーメンだ、いいか、89円、つまりいつものラーメンの二倍のやつだ、実にスペシャルなんだな」



「・・・・・・・・・は・・・・・・?」



「飲み込みの悪いやつだな、いつもの二倍の値の食事だぞ?」

 まさかそんな些細というにはあまりに馬鹿馬鹿しいほどどうでもいいことが、彼の言う『特別』なのではあるまいなと信じ難く思いながら、士朗は聞き返した。ニクスは時たま実に阿呆になる。信じられないというか、それは士朗の想像を越えるくらいだ。無論今だって実にそう思う。彼とのセックスは決して易しくはないが、それでもセックスをしている方が余程通じ合えていると思う時がたまにある。今もそうだ。ギャップというにはあまりに理解しがたいというよりしたくもないことが、そこにはある。



「・・・・・・まさかとは思うが、・・・・・・おまえの言う『特別』って、42円が89円になったってそこなのか・・・・・・?」


 あまり確認したくもないというより確認したくもないが、なんとも落ち着かなくて士朗はついニクスに確認を求めてしまう。こんなくだらないことまできちんと付き合おうとしてしまうだなんて、自分はあまりにこの男に対して律儀すぎるのではないかと思う瞬間がある。まさに今がそうだ。

「そうだ、」


 ニクスはそう短く答えて、それから士朗の方を見たまま、ほんの少し、頬の肉を緩ませて、わずかに微笑った。いつもは険しく冷たい感じのする目許が、ふとその瞬間和らいだ。



「・・・左様すか・・・・・・」




 もうその笑顔を見た瞬間、ただでさえ力の入らなかった身体の、全ての力が溶けるように脱け出した。


 ・・・まったく、そんなに信じがたいくらいアホだったり理解したくなかったりするくせに、その笑顔のなんということだろうか。思わず心臓がどくんと高鳴って、全身が目だったらいいと思うくらいに見惚れてしまった。
 ニクスが微笑むことは本当に珍しいくらいに滅多にないことなのだが、そんなくだらない、自分では想像もつかないくらいのことでそれが見られるなら、それだっていいと一瞬本気でそう思わされてしまった。


 そんな自分に、士朗は後悔のような諦念のような、そんな気分のものを感じたが、どちらにしろそれだって随分幸せのうちだ。こんな奴、しかも男とセックスをして、その後こんなくだらないことを聞かされたとしても、残念ながら自分はそれが嫌な訳でなく、どちらかというと嬉しいような気分にすらなるのだ。まったくなんだって、こんな羽目になったのだろう。



 そんな自分の巡り合わせに眩暈を感じつつ、隣の布団の上では、機嫌の良さそうなニクスがゆっくりと彼なりに美味そうに煙草を吸っている。


 まあいいか、と士朗は思う。妥協とかそういうのは非常に嫌いでそんなものはしたくもないのだが、このまあいいかという気持ちはそういうものではないような気がする。とりあえずそのわずかな微笑にすら心臓が高鳴るような(不本意だが)男に彼なりにご馳走の食事を作って貰って、そうして寒い部屋でセックスを二回した。考えてみればそれなりに悪くない。むしろいいくらいだ。


「だからおまえは食い物に不注意だっつんだよ」


 どこか得意げに、ニクスは言って、深く煙を吐く。知らねえよ、そうぼそりと答えて、士朗はそれから堪えきれないように微笑む。部屋は相変わらず寒くて、これから明け方までもっと冷えるだろう。でもこの部屋で、この部屋の主のソファを陣取って毛布にくるまっている自分はきっと寒くはない。




 明日、二人が目を覚ましたら、士朗は眠りに薄められていく意識の中で思い浮かべる。


 そうしたら、塩ラーメンを探しに行こう。それも、5個で198円のものではなくて、もっと安い、特売のやつだ。それをわざわざ探しに行こう。そんなものがあるのかどうなのか、自分にはわからないけれど。




 ニクスの煙草の煙が、鼻の上を擽って流れてゆく。


 俺も大概アホになってきたかな、そう心の中で独りごちながら、士朗は温かい眠りの中に引きずり込まれていった。





←contents top