counter[balance/attack]








 その日はひどく調子の悪い日だった。


 士朗は新たに盛り上がるDJブースを後にして、憮然とした顔でカウンター近くの丸テーブルに肘をつく。
 何が悪いのか、何が良くないのか、纏まったリズムが掴めない。自分の中でばらばらに崩れ始めたリズムは、滑稽なほどにすべてのテンポを縺れさせた。ターンテーブルの上の8インチ盤を回す手も、フェーダーに掛かった指の先も、次の曲のレコードを探すために伸ばした腕も。すべてが一瞬スローで遅れたようなタイミングのズレで士朗の感覚を彷徨わせ、戸惑わせた。

 その結果といえば無論散々な出来で、途中からどうやって致命的にずれ始めたこのリズムを戻そうかと翻弄している自分が、他人にはひどく滑稽に見えるだろうと焦れば焦る程、その差は開いていくような有様だった。その、なんとも言えぬ焦燥と無力感。そんなプレイにオーディエンスがついてこれる訳もなく、士朗はこの広いフロアの中で、孤立している自分を感じた。
 結局、オーディエンスに選ばれたのは、平凡なほどに面白味のない誰かのリズムで、自分の作るがたついたリズムではなかった。
 いつもなら、勝てるのに。そう思うとそれだけに出来ない自分が、修復しようとうすればするだけそこから遠ざかってゆく自分が悔しかった。唇を噛み切りたいような気分で、士朗はDJバトル終了のMCを聴いた。






 会場が少しだけ湿度のあるざわめきで充たされているのはいつものことで、だが、今の士朗にはそれがとてつもなく不快だった。今すぐここから立ち去ってしまいたかったが、フロアを熱くし始めた次のバトルの様子が気になった。見届けたいと思っている訳ではないにしても、士朗には、なんとなくここから動くことが躊躇われた。

 「ひどいザマね」

 ふっと、気配を感じさせないしなやかな足取りで、ナイアが視界に切り込んできた。奇妙に光沢のある織のフレンチスリーブに、腕をぐるりと取り巻く龍のモチーフのブレスが彼女にはしっくりと落ち着くほどにマッチしている。耳許で、金のピアスが蕩けるように輝いた。
 金のピアスと龍を身に纏ったナイアは、その容姿から言っても、圧倒的な実力から言っても、誰一人として敵いそうにないという強靭さを湛えていた。士朗は返事をすることすら億劫で、ナイアから視線を外し、聴こえるか聴こえないかくらいの小さな溜め息をひとつ落として、テーブルの表面を見つめた。

 「言い返す元気もないってとこ? 最近かなりひどくなってきてるけど、今日のは殊更だったわね。そんな様子してるんだったらとっとと帰ったら? あんまりいい見場じゃないわ」

 答えない士朗に、ナイアが続けて言う。ナイアは他人にあまり干渉するタイプの人間ではないが、そのナイアでも一言言いたいくらいに今日の自分はひどかったらしい。あまり有難くはない言葉の羅列を、尤もだとどこか納得しながら、士朗は艶やかにフロア照明の波を撥ね返すテーブルの表面を、じっと見詰めた。

 「・・・ほら、」

 目の前に、薄琥珀色のグラスが差し出される。少し驚いてナイアに目を遣ると、ナイアは僅かに顔を歪めて、

 「・・・言っとくけど奢りじゃないわよ。代金は自分で払って」

と少しきまりわるそうに言った。ナイアも、あまり自分らしくないことだと思っているらしかった。



 「・・・・・・皆は」


 その表情に促されるように、士朗は短く尋ねた。尋ねた瞬間に自分の口から出た声ががらがらとひどく掠れていて、その声にぎょっとして口を閉ざす。目の前に置かれたカクテルをあおり、喉を潤す。

 「セリカやエリカは見てないわ。エレキは・・・来てたら判るわね。ユーズ達はもっと遅い時間じゃないの、来るのは」

 まったく、あんたがいるから少しはマシかと思ったのに、とナイアは小さく呟いて、それが士朗にも聴こえた。確かに今日の自分では相手にすらならないだろう、と士朗は思う。目の前の強さを体現したようなナイアの前で、今の自分はいかにも疲れて、ずたぼろだった。挑発される気力も、奮い立たせるパワーすらも、士朗には出せそうになかった。

 「・・・そういえば、最近ずっと、ニクスも来ないわね」

 ふと、ナイアが思いついたように言った。士朗はそれに答えるでもなく、目の前のカクテルを呷る。
 ウィスキー特有の薫りがくっと喉の奥を突いた。舌先で弾けるソーダの泡を、まとめて流し込むように、一気に飲み込む。薄められた筈のウィスキーの香りが、絶えず鼻の奥の嗅覚を刺激した。
 悪酔いしそうな具合だな、士朗はそんな自分をどこか危うく思う。だが、テーブルの上に見える自分の手は機械的で、決められたことのように一定のリズムで自分の唇にグラスを運んだ。こんなリズムは整っているのに、ふと士朗は自分が可笑しくなる。だがそのリズムはいつもの自分のものではなかった。

 「・・・自棄酒なんて5年早いわよ、士朗」

 ナイアが隣で呆れたようにぼそりと言った。その時、わっとオーディエンスが喚声を上げた。片方のDJが流行の曲をかけたらしい。俄然、フロアの空気が盛り上がる。
 ナイアは一瞬気遣わしげに士朗を見て、それからやはりバトルが気になるのか、士朗のテーブルから離れ、フロアの中央の方に歩いていった。今掛かった曲のアレンジに興味があるのだろう。ナイアらしい、と士朗は思う。


 薄琥珀色の液体は気づくと大振りのグラスの1/4にも満たなくなっていて、士朗は残ったその液体を、一気に飲み干す。
 飲み下す瞬間、きついまでのウィスキーの甘ったるい芳香が鼻をついて、頭の芯がくらりとくる。酔うかな、そう思いもしたが、だとしたらもう手遅れだった。
 全部を飲み干してしまうと、さっきからだるくなっていく一方の身体が急に重く感じられ、士朗は背の高いテーブルに突っ伏すように凭れ掛かる。どちらかと言えばアッパー系のこのクラブはあまり椅子というものがなく、カウンターと、少数のテーブル以外は、殆どのテーブルが立ちテーブルだった。
 しまった、カウンターに行けば、と士朗は思ったが、重くなった身体は言うことを聞いてくれそうにもなくて、距離にすればわずかばかりのそのカウンターまでが、やけに遠かった。

 ちくしょ、と士朗は小さく洩らす。さっきの酒がいっきに回ったのか、きちんと身を起こそうと思えば思うほど、ずるずると身体は下に沈みこんで言って、半ばテーブルに突っ伏すようになる。頭がぐらぐらとして、しゃんとしようとしようとしても定まらない。
 冗談じゃない、士朗は思う。自分はここに音を競いに来ているのであって、だらしなく酔いつぶれに来ている訳ではないというのに、なんてザマだろうか。

 意識が、ぐらぐらと重く不均一な円を描くように、頭の中をうねっている。体勢を立て直そうと努める腕の指先は、感覚が遠かった。触れていれば冷たさと固さを感じる筈のテーブルに支えた腕は、熱を発しているようにただその火照りだけを伝えた。堪らず士朗は目を閉じる。瞼が待ちかねていたようにするりと下ろされて、そうすると、視界には混濁するような暗い闇がやってくる。



 オーディエンスの歓声が、どこか遠い。目を閉じてしまったせいか、ざわめきが肌に直接触れてくる。ダイレクトなそのざわつきに、士朗は身震いする。熱があるときのように、身体が震えた。閉じた暗い瞼の中に、時折照明の明るさだけが一過性のフラッシュのように訪れては通り過ぎる。指先が、もう重くて動かない。じっとりとした湿度が、士朗を包んだ。だめだ今ここでは、士朗は思う。意識が、重く沈みかけていた。




 ---ふと、本当にふと。その湿度が途切れたような気がした。たった一瞬だけ、そのざわめきも、悪寒も、まぶたの暗さも、そんなものがふっと、真空のように。


 それは気配にも似ていた。一瞬、隣に起こった真空は、なにかの気配にも似ていた。ざわめきをふさぎ、湿度を薙ぎ、悪寒を和らぐ温度をくれた。そこには一瞬、確かに何かが存在していた。そう、その気配は例えて言うなら・・・




   「--・・・・・・ニクス・・・・・・?」




 声が、重さで塞がれていた唇の合間から洩れた。
 不思議と、自分でも奇妙と思えるほどに、その声はざわめいて重く湿ったフロアの空気の中を通り抜けた。そうしてその自分の声に解かれるように、士朗は顔を上げ、目を開いた。


 気配は、たった、その一瞬だけその存在を漂わせて消えた。
 いかに士朗が突っ伏していたとはいえ、たった一瞬でどこか人の波に紛れてしまいきれる訳でもないのに、士朗が顔を上げ、フロアを見渡したその一瞬、名前の主の姿はどこにも見えなかった。
 見開いた視界の中には、相変わらず照明の移り変わるフロアで蠢く黒いオーディエンス達の姿があった。湿度は変わらず重く立ち込め、皮膚には不快なざわつきが貼り付いた。誰かが今自分の隣に立っていたという痕跡はまったく感じ取れなかった。寧ろ、誰もいなかったと思う方が余程自然なくらいに、ナイアがここを離れた時から、周囲は何も変わっていなかった。



 「あ、士朗ー、どしたのー? ナイアが士朗がへたばってるって言ってたからー。なんか具合悪いの? 平気?」

 高い声の、鮮やかな服に身を包んだセリカとエリカがやってきて、士朗の周りを取り囲む。ざわめきが消し飛び、湿度はどこかに吹き飛んだかのように薄らぐ。

 「気にすることないよー、誰だって調子の悪い日あるんだからー」
 「そうそ、この前セリカひどかったもんねー、あれは凄かったし」
 「あ、そゆこと言う、エリカ、ひっどー」

 賑やかな二人が、その生気を振り撒いて、やっと暗さが晴れてくる。ざわめきの、ひとつひとつの音が調和を持ち出す。遠く蠢いていたオーディエンスが、段々とクリアに近くなってくる。現金な身体が、だるさを捨て落として、軽さを増す。



 「・・・・・・なあ、ニクスを見なかったか?」



 少し微笑んだ口調で、士朗は問う。さっきまでの自分が過ぎた悪夢のように、今は全体が何かを脱ぎ落としたような、そんな感じがする。

 二人は士朗の問い掛けに、きょとんとして顔を見合わせると、不思議そうに頷きあって、士朗を見上げた。


 「・・・・・・ニクス?って、・・・えっと、・・・最近来てない、よね・・・・・・? 今日、来るの・・・?」


 どこかおずおずと返される言葉に、士朗は少し目を見開いて、それからやはりそうか、と思う。
 落胆するのでもなく、何故かその言葉に微笑みかけてすらいる自分に、士朗は奇妙な可笑しさを感じたりする。そこに、先ほどの気配の正体を問う気持ちなどないことに、士朗は何かを見つけたような、安堵したような、そんな感覚を味わう。



 「・・・いや、いいんだ、・・・・・・別にそういう訳じゃない」



 不思議そうな二人を安心させるように微笑み、それから喉が渇いたな、と士朗は二人に向かって言う。
 あ、渇いた、渇いた、冷たいもの飲みたーい、とセリカがいうと、エリカが私セブンアップ、と声高らかに宣言する。じゃあ、あたしピーチフィズ、と対抗するようにセリカが言い返す。
 でも、ニクス早く来るといいよねえ、とエリカが言うと、セリカがそうだよあんまり来なさすぎ、なんか長期の住み込みバイトとかしてんのかなー?と士朗を見て言う。さあな、と士朗は少し笑って答えて、エリカが士朗だって早くニクスとバトルしたいでしょ、いっつもバトルしてたもんね、と言う。



 そうだな、と士朗は言って、それからドリンクを受け取り、三人で歩き出す。

 フロアの中央、オーディエンスとバトリングしているDJたちのいる、そこへ。





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